新説・日本書紀㉚ 福永晋三と往く
https://scrapbox.io/files/62ad66a8906df2001d96c1a2.jpg
2019年(平成31年)3月30日 土曜日
天智天皇の中央集権政治
斉明天皇が筑紫君薩夜麻の母であり、皇極天皇が豊君天智天皇の母であることが分かってきた。また、斉明元~7年と天智元~7年は実は同年代であり、斉明・天智紀に7年のずれがある重出記事の多い原因でもある。したがって、皇極と斉明は女帝ではあるが、全くの別人となる。
天智の大化改新以来の中央集権化が進み、倭国東朝は勢力を拡大し、外交面では唐・新羅と結び、663年8月の白村江戦後に名実ともに倭国の絶対君主となった。
664年、「海外国記」によれば、国号を日本と改め、「襲国偽僭考」によれば、「中元」と改元した。田川郡に中元寺川が流れている。
同年3月に、唐王朝は、大使の郭務悰や百済佐平禰軍、また捕虜の筑紫君薩野馬ら総勢2千人を47隻の船に乗せて大宰府に派遣した。大使らは大宰府に筑紫都督府を置いた。唐朝の羈縻政策(異民族内部の行政組織をそのままにして異民族を統御する政策)の一環だ。
続いて、書紀の10月記事に、「大きに菟道(香春阿曽隈社)に閲す」とあり、天智は唐軍を閲兵している。天智は決して敗戦国の王ではない。
赤村の琴弾瀧の伝承に、「天智天皇の一行が訪れて、命婦石川色子(日本)と季氏(唐)が滝の岩上で別れの秘曲を奏でた」とある。おそらく唐の将兵らを日本(豊国)の景勝地でもてなしたのであろう。
665年2月、「天智天皇は大皇弟に命じて、冠位の階名を増し換えた」とある。倭国本朝併合に伴う人事刷新であろう。大皇弟とは大海人皇子(後の天武天皇)を指すが、どうやら筑紫君薩野馬のようである。
「日本はもと小国だったが、倭国を併合したのである。その結果、公地公民制・班田収授の法が筑紫・火国にまで及んだ。
670年、庚午年籍が作られた。日本はついに唐の属国と化す。
大海人皇子独立を志す
671年9月、天智は病床に伏す。10月19日、大海人は仏道修行に入りたいと願い、20日に吉野宮(中津市山国町)に、入った。ある人は「虎に翼を着けて放てり」といった。この時にすでに謀反を計画していたようだ。
12月3日に、天智は近江宮(糸田町大宮神社)に崩御し、大友皇子が皇位を継いだと書紀は記す。
壬申(672)年6月24日、大海人は東国(平尾台周辺)に向けて徒歩で吉野宮を出た。壬申の乱の始まりである。
近江朝は大海人の東国入りに驚き、大海人に味方し反乱に加わる恐れのある者に使いを出し、近江朝につかない場合は殺せと命じた。筑紫大宰の栗隈王は「大宰府は対外防御の城だ。内乱に兵は動かせぬ」と強く拒否した。この栗隈王はあるいは大海人の実の弟かも知れない。
近江軍と大海人軍は一進一退の攻防を繰り返したが、7月4日、大海人軍は「上道(みやこ町犀川大坂から赤村小柳への道)に当たって、箸陵(赤村内田の前方後円墳)の下で戦い、近江軍に大勝」した。
7月23日、「大友皇子、逃げて入らむ所無し。乃ち還りて山前(小竹町山崎)に隠れて、自ら縊れぬ」。
9月15日、岡本宮に遷り、その冬に飛鳥浄御原宮(赤村大原)に遷った。
673年2月に即位。天武天皇である。唐からの独立を得た天武も、686年6月、「草薙劒に祟られ、病床につき」、病が癒えず、9月9日に崩御した。
2019年5月1日、「剣(草薙剣)璽等承継の儀」が執り行われる。 =おわり
百済佐平禰軍(678年没)の墓誌銘。「日本」とある
大原の雪景色。吾が里に 大雪ふれり 大原の 古りにし里に ふらまくは後(万葉集103天武天皇)
織幡神社境内にある武内宿祢(天智)の沓塚
完:新説・日本書紀 福永晋三と往く